ところが最近は、写真を毎日見ている。繰り返し見ている。初めてお目に掛かる方々までもが、そう言ってくださるから。そうしたいろいろとは別の次元で、ああ、僕はコノ人にとって写真家であるのかも知れないな。と感じる。ということだ。
(2012-12-11「写真家」Cheap Memo)
と、2年前に書いている。
その2ヶ月後にラ・マシアの あきなちゃんから注文を頂く。あれが転機だった。市役所へ婚姻届を出しにゆくふたりを撮る。
それが引き金となり、お祝いごとを撮影させて頂くようになった。
作成するフォトブックはたぶん、長く、本人やご家族が眺めてくださる。未来、僕らの居ない世界でも大切にしてもらえるかも知れない。
撮影中も脳ミソのどこかでそういうことを考えている。
先々週末はMusume(7歳4ヶ月)の小学校での初・運動会を欠席して。先週末は阿蘇をぐるっと1周して。合計33本のフィルムに光を詰め込んだ。
最近思うのは。
出来上がる写真が大事なのはもちろんだけれども。誰かの幸せな日をあの茶色いてろてろした物質へ収める。その行為自体が、それを共にすることが、幸せだなということです。
おめかしをする。後部座席からふたりを眺める。喜ぶおばあちゃんと話す。はしゃぐ。食らう。ワインが光る。秋の風に吹かれる。ただいま、いってきますをたくさん聞いたであろう玄関に立つ。恩人に会う。胸が高鳴る。
写真を撮る。それが口実、きっかけとなり、また幸せな出来事が起こるということです。
か細い体が磨り減り、もうしばらくは撮りたくないと感じるほどに満たされる。
広く世間に認められる写真家、雑誌・広告等で活躍するカメラマンに対する憧れが無くなくはなくなくはない。けれどもこのカタチこそが、僕の特長を活かした、性に合った、撮り手としての在り方なのだろうなと、いまは思う。